1944(昭和19)年 | 1月10日 |
福島県立女子医学専門学校設置認可 |
4月 1日 | 公立福島病院(現福島市杉妻町)が福島県立女子医専附属医院となる | |
杉立義行先生が整形外科部長兼講師に着任 |
1944(昭和19)年 |
4月20日 |
福島県立女子医専開校、第1回入学式 |
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4月24日 |
旧信夫郡清水村(現福島市森合字小松原)の信夫農学校を仮校舎 として授業開始 |
1947(昭和22)年 | 2月10日 |
福島市三河北町の福島製作所本館を譲渡され、改装後にできた 三河北町校舎に移転 |
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6月18日 |
旧制福島県立医科大学予科設置認可(開学記念日) |
6月19日 | 菊地正三先生が整形外科部長兼講師に着任 | |
8月 2日 | 福島県立医科大学予科開校、第1回入学式 |
1950(昭和25)年 |
3月30日 |
旧制福島県立医科大学医学部開設認可 |
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4月21日 |
旧制福島県立医科大学第1回入学式 |
1951(昭和26)年 |
3月31日 |
福島県立女子医専廃止 |
4月 1日 | 旧福島県立女子医専附属医院が福島県立医科大学附属病院となる |
整形外科は、1944年に開設された福島県立女子医専時代から設置されており、杉立義行先生、ついで菊地正三先生が整形外科部長兼講師として、整形外科の診療と講義を担当されていた。1940年代の整形外科医員は、渡辺千代蔵先生ただ1人であった。その後も女子医専の卒業生が整形外科医局に入るものはいなかった。
1950(昭和25)年になって、岩手医専(現岩手医科大学)を卒業した鈴木豊二先生が整形外科に入っただけであった。1952年には新制福島県立医科大学に移行したが、女子医専から整形外科教員として新制大学に残られたのは、鈴木豊二先生ただ1人だけあった。
在任期間 1951-1954
1951(昭和26)年 | 4月 1日 |
佐藤孝三先生が東京大学整形外科から旧制福島県立医科大学整形外科 助教授に着任(講座開設日) |
1952(昭和27)年 | 2月20日 | 新制福島県立医科大学設置認可 |
4月 1日 | 新制福島県立医科大学開設認可 | |
1953(昭和28)年 |
1月 | 佐藤孝三助教授が整形外科学講座初代教授に昇任 |
4月 | 附属病院改築工事着工 | |
6月29日 | 医科大学本部を福島市三河北町に新築移転 | |
1954(昭和29)年 | 4月 | 高橋孝文先生が東北大学整形外科から助教授に着任 |
11月 | 佐藤孝三教授が東京大学整形外科助教授として退職 | |
1963(昭和38)年 | 1月 | 佐藤孝三先生が日本大学整形外科教授に就任 |
佐藤孝三先生が日本手の外科学会会長に就任 | ||
1967(昭和42)年 | 佐藤孝三先生が日本整形外科学会副会長に就任 |
佐藤孝三先生が着任された当時、整形外科学講座には設備らしい設備もなく、古い木造病室を改造して設けられた新再来室という名の1室しかなかった。整形外科の病棟もなく、患者さんは外科などの病床に散在しており、回診も思うに任せない状況であった。佐藤教授の任期中には、卒業生が1人も出なかったことから、整形外科学講座は女子医専当時から勤務されていた鈴木豊二先生と東京大学から応援に来られた松永 仁先生との3人でスタートした。1年後、松永先生は東京大学の景山孝正先生と交代した。1954(昭和29)年には、東北大学から高橋孝文先生が助教授として招かれた。この間に整形外科に入った本田リリ子・和知英男両先生を加えた4-5人によって整形外科学講座は維持された。
1952年以降は、病院事務室を改装して、新再来室、医局、ギプス室が設けられ、研究棟には教授室と研究室がつくられた。理学療法室は、整形外科の開設前から存在していたが、第一外科に所属しており、山口二郎氏(本県のリハビリテーション医学の発展に多大な貢献をされた福島県理学療法士会初代会長)他数人のマッサージ師により、宍戸仙太郎第一外科教授の指導下に、先天性股関節脱臼の整復、ギプス固定、後療法やポリオの麻痺筋回復訓練、筋性斜頸のマッサージ等が行われていた。整形外科の開設後、理学療法室は宍戸外科から整形外科に所属換えとなった。佐藤教授は、理学療法室との融和を心がけられ、整復やギプス固定は整形外科医師が行い、後療法は理学療法室にまかせるという本来の役割分担が行われるようにされた。
昭和20年代は、主に骨折の整復固定術、骨切り術、拘縮解離・植皮術、筋性斜頚の腱切り術、ポリオによる麻痺患者の関節固定術などが行われていた。麻酔科はまだなく、自らの手で局所麻酔、腰椎麻酔、伝達麻酔、ときにはエーテルの開放点滴麻酔をかけて、手術を行っていた。
当時福島県内には、整形外科のある病院が福島県立医科大学以外になかった。佐藤教授は、医師会、柔道整復師や県の役人の集まりに出向いて、整形外科とはどんな診療科であるかを講演された。また、県主催の肢体不自由児巡回相談に赴き、県内を隈無く歩き回ったり、保健所や相談所に毎週出向いたりして、整形外科という診療科の啓蒙を積極的に行った。
整形外科学講座の研究室の設備は皆無に近く、研究活動は困難であり、この間の業績はわずかであったが、関節鏡検査、先天性股関節脱臼の臨床研究、購入されたばかりの電子顕微鏡を用いた骨断面の観察などが行われた。
在任期間 1954-1960
1954(昭和29)年 | 11月 | 土屋弘吉先生が横浜市立大学整形外科から第2代教授に着任 |
1955(昭和30)年 | 11月 1日 | 県立飯坂病院が医大に移管され、附属病院飯坂分院となる |
1956(昭和31)年 | 4月 | 高橋孝文助教授が宮城県整肢拓桃園園長として退職 |
5月 | 奥山繁夫先生が横浜市立大学整形外科から講師に着任 | |
1957(昭和32)年 | 1月 4日 | 整形外科教授室より失火 |
1958(昭和33)年 | 5月 | 奥山繁夫講師が助教授に昇任 |
9月 | 第7回東日本臨床整形外科学会を主催(福島市飯坂) | |
1960(昭和35)年 | 9月 | 土屋弘吉教授が横浜市立大学整形外科教授として退職 |
10月 | 土屋弘吉先生が横浜市立大学整形外科教授に就任 |
土屋弘吉教授が着任された当時の整形外科のスタッフは、高橋孝文助教授、鈴木豊二講師、助手6人となり、やや充実した。旧陸軍の飯坂療養所は、県立飯坂病院となっていたが、1955(昭和30)年に移管され、附属病院飯坂分院となり、1957(昭和32)年に鈴木講師は助教授に昇任して、同院の整形外科部長となった。
昭和30年頃、骨折の患者さんは、外科、柔道整復師、マッサージ師等の治療を受けることが多く、整形外科を訪れることはまだ少なかったが、土屋教授時代になって、ようやく整形外科疾患の患者さんが、整形外科を受診するようになってきた。福島地方では、採暖手段が囲炉裏や炬燵であったことから、幼児が火中に転落して火傷を負うことが多く、火傷瘢痕拘縮の手術が多かった。また、この頃から、椎間板ヘルニアの手術が行われるようになり、土屋教授は椎弓切除術ではなく、Love法を採用された。 しかし、麻酔科はまだなく、脊椎手術も局所麻酔で実施されることが少なくなかった。1958(昭和33)年になって、初めて有井俊彦助手が東北大学の麻酔科に研修に行って、閉鎖式循環麻酔を学び、以後、当院でも実施されるようになった。
1953(昭和28)年に着工された舟場町(現杉妻町)の附属病院改築工事(1953〜62年の9年間に及んだ)が進行中であったため、整形外科外来は何回か移転した。土屋教授が着任された当時、整形外科外来は中庭にあった古い木造2階建ての建物の1階に一時的に移っていた。2階には教授室、助教授室などがあった。1957(昭和32)年1月4日の朝、この教授室から出火し、建物が全焼する火事があった。教授室には後述する先天性股関節脱臼の遺伝に関する研究資料が多数置いてあったが、医局員たちによって搬出されて、焼失を免れ、後日無事に日本整形外科学会で発表できたというエピソードがある。
土屋教授も佐藤教授と同様に、週に1度福島保健所で療育指導を行っていた。この時に鳥川村(現福島市上鳥渡。福島西インター周囲)に先天性股関節脱臼の患者が多いことを知り、また、この地に一卵性双生児が多いのに気づかれ、教室員一同で鳥川村の戸別訪問を行って、住民の家系図を作成した。これは、後に先天性股関節脱臼の遺伝学的研究に発展し、1959(昭和34)年の日本整形外科学会総会で土屋教授の宿題報告として発表された。
主な学会としては、1958(昭和33)年に飯坂町花月館大ホールで第7回東日本臨床整形外科学会を主催した。
福島県内の整形外科は、太田病院(郡山)、竹林病院(平)、大河内病院(内郷)に新設されただけで、極めて少なかった。1956(昭和31)年に島貫幸夫助手が竹林病院に派遣されたのが、当講座の医師派遣第1号であった。1958(昭和33)年には、県立川俣病院(現済生会川俣病院)に整形外科が新設され、宮崎和夫先生が赴任した。その後、大原病院、白河厚生病院、山森病院、鹿島厚生病院など県内にも整形外科が開設され、当講座から医師が派遣されて、地域医療の充実が図られるようになった。
在任期間 1960-1971
1960(昭和35)年 | 11月 | 鈴木良平先生が東京医科歯科大学整形外科から第3代教授に着任 |
12月 2日 | 医科大学本部が福島市舟場町(現杉妻町)に移転 | |
12月 | 奥山繁夫助教授が横浜市立大学助教授として退職 | |
1961(昭和36)年 | 7月 | 岡本秀雄先生が東京医科歯科大学整形外科から助教授に着任 |
1962(昭和37)年 | 2月 | 岡本秀雄助教授が東京で開業し退職 |
1964(昭和39)年 | 5月 | 蓮江光男先生が東京大学整形外科から助教授に着任 |
本学専門4年生がインターン委員会を組織 | ||
1966(昭和41)年 | 3月 |
卒業生が青年医師連合(青医連)福島支部を作る |
6月24日 |
無給医師全日ストの全国統一行動 |
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1967(昭和42)年 | 3月12日 | 青医連が春の医師国家試験をボイコット |
6月 |
開講15周年記念業績目録発刊 |
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10月18日 | 附属飯坂分院廃止 | |
11月30日 | 「登録医制度」法案に反対する全国医学生授業放棄 | |
1968(昭和43)年 | 3月21日 | 青医連が春の医師国家試験をボイコット |
5月10日 | 「医師法一部改正案」が成立 | |
6月23日 | 医師法改正による第1回医師国家試験、多数のボイコットあり | |
1969(昭和44)年 | 1月18日 | 機動隊突入による東大安田講堂攻防戦 |
6月 7日 | 学生会・青医連が無期限ストに突入 | |
学生会・青医連・教室員会が全学共闘会議(全共闘)を結成 | ||
7月 9日 | 整形外科を含む複数の診療科がストを開始 | |
8月17日 |
「大学の運営に関する臨時措置法」施行、本学も紛争校に指定 |
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9月 1日 | 附属リハビリテーション研究所(福島市飯坂町)新設 | |
9月25日 | 全共闘によるスト解除 | |
9月26日 | 授業再開 | |
1971(昭和46)年 | 1月 | 鈴木良平教授が長崎大学整形外科教授として退職 |
2月 | 鈴木良平先生が長崎大学整形外科教授に就任 |
鈴木良平先生は、東京大学在職中の1958(昭和33)年7月にソビエト連邦および東欧に出張された。この際に訪れたチェコスロバキアのArnold Pavlik教授から、その考案(1946年に初めてチェコスロバキアの整形外科学会で報告された)による先天性股関節脱臼の治療用装具リーメンビューゲル(Pavlik Harness)をいただいて、日本に持ち帰られた。当時、この装具は、チェコスロバキアの他に、オーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビアなど東欧諸国でしか用いられておらず、その後、イスラエルと日本にもたらされたが、それは鈴木先生の功績であった。帰国後、鈴木先生は西欧や北米諸国に先立って、東京大学でリーメンビューゲルの臨床的試用を開始された。その後、東京医科歯科大学を経て、1960(昭和35)年に当講座に赴任されてから、本格的にリーメンビューゲルの臨床応用を開始された。すなわち、今日では広く国内で先天性股関節脱臼の治療用装具として使用されているリーメンビューゲルが国内に普及したのは、福島県立医科大学整形外科からである。
1964(昭和39)年に東大から蓮江光男先生が助教授として招かれたが、蓮江先生は1979(昭和54)年に日本赤十字社医療センターに転出するまでの15年余にわたって、当講座で教育、研究、診療に大きな功績を残された。特に、専門であった腰椎外科の臨床および基礎研究の礎は、当講座の中心的な研究テーマとして受け継がれ、その後の菊地臣一理事長兼学長、現在の紺野愼一教授へと脈々と続いている。
鈴木教授は、先天性股関節脱臼の臨床研究のみならず、筋電図などの電気生理学的研究や歩行分析にも積極的に取り組まれ、当講座の発展に多大な足跡を残された。
しかし、1964年のインタ−ン闘争に端を発し、1966(昭和41)年以降に激しさを増した医学生や若手医師らによる大学紛争の混乱は、1969(昭和44)年に頂点に達し、その収束後も当講座に重大な影響を及ぼした。1969年8月には、整形外科若手医師が整形外科医局の解体と整形外科自治会の設立を宣言し、教授権力の否定、学位・博士号の否定、製薬企業資本との絶縁、人事・経済の自立を旨とする規約を制定した。これは、次の松本教授の代にまで持ち越されることとなり、20年間もの長期に渡って当講座の基礎および臨床研究は大いに停滞することとなった。
在任期間 1971-1990
1971(昭和46)年 | 5月 | 松本淳先生が東京大学整形外科から第4代教授に着任 |
1976(昭和51)年 | 9月 | 第25回東日本臨床整形外科学会を主催(福島市) |
1979(昭和54)年 | 10月 | 蓮江光男助教授が日本赤十字社医療センター部長として退職 |
1980(昭和55)年 | 4月 | 渡辺真講師が助教授に昇任 |
1984(昭和59)年 | 4月 |
附属病院(光が丘キャンパス)起工 |
10月 | 第12回日本リウマチ・関節外科学会を主催 | |
1987(昭和62)年 | 6月 1日 | 附属病院(光が丘キャンパス)移転開院 |
1988(昭和63)年 | 3月 | 福島県立医科大学光が丘キャンパス完成 |
7月 | 第20回日本結合組織学会を主催 | |
1989(平成 元)年 | 6月 | 第9回日本骨形態計測研究会を主催 |
6月 | 第28回小児股関節研究会を主催(会長: 渡辺真助教授) | |
松本淳教授退官記念誌(業績集)発刊 | ||
1990(平成 2)年 | 3月 | 松本淳教授が定年退官 |
松本淳先生が本学名誉教授の称号授与 |
松本淳先生は、東大時代に国内で最初に手がけられたCharnleyの人工股関節手術を就任早々に福島に持ち込まれた。このため、福島では国内でも早くから人工股関節手術が実施されることになり、重度の障害をもった関節リウマチや変形性股関節症の患者さんに福音をもたらした。特に関節リウマチの治療では、外科的治療ばかりでなく、内科的治療、リハビリテーションも重視し、患者さんの生活の質を重視して、多くのリウマチ患者さんの治療に当たられた。
また、福島医大では1969(昭和44)年以来、外務省の関連団体である国際協力事業団の斡旋で、アフリカの新興国ガーナと医療協力の協定を結び、ガーナ側医師団と福島医大医師団チームがいくつかのグループに分かれて共同研究を推進するプロジェクトを実施していた。整形外科でも1976 (昭和52)年松本教授が実際にガーナに渡り、「ガーナ小児の骨濃度の測定」、「手の骨化成熟度の測定」を共同研究テーマとすることに決めた。1977(昭和52)年に中村武先生と黒羽根洋司先生の2人がガーナに渡航し、このテーマに沿って研究を行った。また、1978(昭和53)年には渡辺真講師が加わり、さらに研究を進めた。
主な学会としては、1976(昭和51)年に東日本臨床整形外科学会、1984年(昭和59)年に日本リウマチ・関節外科学会を主催した。
在任期間 1990-2006
1990(平成 2)年 | 10月 | 菊地臣一講師が第5代教授に就任 |
1991(平成 3)年 | 1月 | 渡辺真助教授が福島県心身障害児総合療育センター部長として退職 |
1992(平成 4)年 | 5月 | 小林利男講師が助教授に昇任 |
1993(平成 5)年 | 4月 | 菊地臣一教授が医学部附属リハビリテーション研究所長に就任(兼務) |
1994(平成 6)年 | 1月 |
小林利男助教授が社会保険福島二本松病院主任部長として退職 |
4月 | 渡辺栄一講師が助教授に昇任 | |
1998(平成10)年 | 3月 | 渡辺栄一助教授が総合南東北病院部長として退職 |
4月 | 吉田仁郎講師が助教授に昇任 | |
1999(平成11)年 | 3月 | 吉田仁郎助教授が飯坂温泉病院院長として退職 |
4月 | 佐藤勝彦講師が助教授に昇任 | |
2001(平成13)年 | 7月 | 開講50周年記念式典 |
2002(平成14)年 | 4月 | 福島県立医科大学医学部附属病院副院長に就任(兼務) |
10月 | 第51回東日本整形災害外科学会を主催(郡山市) | |
11月 | 第4回日本脊椎内視鏡研究会(会長: 紺野愼一助教授)を主催 | |
2003(平成15)年 | 3月 | 佐藤勝彦助教授が県立会津総合病院院長として退職 |
4月 | 紺野愼一講師が助教授に昇任 | |
菊地臣一教授がスウェーデンのヨーテボリ大学名誉医学博士の称号授与 |
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2004(平成16)年 | 4月 | 菊地臣一教授が福島県立医科大学医学部長に就任(兼務) |
10月 | 第5回エピドラスコピー研究会を主催 | |
10月 | 第19回日本整形外科基礎学術集会を主催(郡山市) | |
2006(平成18)年 | 4月 | 公立大学法人福島県立医科大学に移行 |
菊地臣一整形外科学講座教授が退任、 福島県立医科大学副理事長兼附属病院長に就任 |
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6月 | 第33回国際腰椎学会(会長:菊地臣一副理事長兼病院長) | |
11月 | 第13回日本腰痛学会を主催 | |
2007(平成19)年 | 4月 | 矢吹省司講師がリハビリテーションセンター部長兼准教授に昇任 |
2008(平成20)年 | 4月 | 菊地臣一副理事長が福島県立医科大学理事長兼学長に就任 |
5月 | 青田恵郎講師が医療連携部長兼准教授に昇任 | |
5月 | 大谷晃司学内講師が医療人育成・支援センター副部門長兼准教授に昇任 | |
2010(平成22)年 | 菊地臣一理事長兼学長が日本脊椎脊髄病学会理事長に就任 | |
2011(平成23)年 | 4月 | 菊地臣一理事長兼学長が2期目に再任 |
2012(平成24)年 | 11月 | 菊地臣一理事長兼学長がふくしま国際医療科学センター長に就任(兼任) |
菊地臣一先生は、腰椎の解剖学的基礎研究と神経根ブロックおよび歩行負荷試験からなる臨床的研究に基づいて、初めて神経根型・馬尾型・混合型という腰部脊柱菅狭窄による神経障害型式の臨床分類を行った。この神経障害型式に応じて、これまで行われてきた椎弓切除術に代わる低侵襲手術である腰椎選択的除圧術を独自に開発した。さらに、この腰椎選択的除圧術を頚椎に応用し、頚椎症性脊髄症に対する選択的除圧術を考案し、初めて臨床応用した。後年、これらの手術を内視鏡下に行う脊椎内視鏡手術を世界で初めて行い、脊椎の低侵襲手術の開発を推進した。また、それまでは多くの脊椎外科医が治療に難渋したり、あるいは無視してきた慢性腰痛やfailed backを積極的に取り上げ、腰部コンパートメント症候群の概念を初めて提唱し、慢性腰痛の病態解明に努めた。さらに、慢性腰痛患者の心理的・社会的側面の評価の重要性と必要性を説かれ、慢性腰痛患者の診療に際して、神経精神科(現心身医療科)と連携して治療に当たる慢性腰痛患者に対するリエゾン精神医学的アプローチを日本で初めて組織的・体系的に開始した。国内ではいち早く、1995(平成7)年から脊椎診療におけるEBMの概念を積極的に取り入れ、経験則で語られがちであった日本の脊椎外科の科学的な発展に大いに寄与した。
菊地教授就任後、その厳しくも篤い教育指導の結果、1969(昭和44)年の整形外科自治会の結成以降20年間沈滞していた当講座の業績は、1990年代半ば以降飛躍的に伸びた。特に、腰部神経根障害の病態解明のために、解剖学、生理学、組織学、分子生物学を基盤とする多くの基礎的・臨床的研究を自ら指導し、国内外から高く評価される基礎的・臨床的研究成果を多数積み重ねることによって、当講座を腰椎疾患研究の世界的トップランナーに育て上げた。
主な学会としては、2002(平成14)年に東日本整形災害外科学会、2004(平成16)年に日本整形外科学会基礎学術集会を主催した。また、2006(平成18)年には、国際腰椎学会の会長を務められた。
2006(平成18)年の本学独立行政法人化に際しては、副理事長兼病院長として活躍し、さらに2008(平成20)年には、本学の初代理事長兼学長に就任され、その指導力を本学の発展と福島県の医療の向上のために発揮され続けている。2011(平成23)年の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故後、理事長兼学長として再任され、福島県立医科大学を福島県内の災害医療の拠点・医療復興の中心として、さらに進化させるべく、尽力されている。
在任期間 2008-現在
2008(平成20)年 | 11月 | 紺野愼一准教授が第6代教授に昇任 |
2009(平成21)年 | 12月 | 田地野崇宏講師が准教授に昇任 |
2011(平成23)年 | 1月 | 紺野愼一教授が福島県立医科大学附属病院材料部長に就任(兼任) |
6月 |
矢吹省司准教授が整形外科学講座教授に昇任、 紺野愼一教授は整形外科学講座主任となる |
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2012(平成24)年 | 4月 |
紺野愼一教授が附属病院副病院長に就任(兼任)、 宍戸裕章講師が准教授に昇任、 関口美穂講師が医学部附属実験動物研究施設長(特任教授)に就任 |
11月 |
ふくしま国際医療科学センター発足、 菊地臣一理事長兼学長がセンター長に就任 |
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2013(平成25)年 | 4月 | 箱﨑道之助教がふくしま国際医療科学センター准教授に昇任 |
5月 | 会津医療センター開所 | |
2014(平成26)年 | 3月 | 田地野崇宏准教授が南東北福島病院院長として退職 |
4月 |
菊地臣一理事長兼学長が3期目に再任 紺野愼一教授が理事兼副学長兼附属病院長に就任 江尻荘一講師がふくしま国際医療科学センター准教授に昇任 |
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8月 |
大谷晃司准教授が医療人育成・支援センター教授に昇任 |
update 2019年4月11日 11:00
当院では慢性腰痛に対する治験を実施しております。
菊地理事長のライフワークである腰痛研究の集大成が10年ぶりに大幅改訂
紺野愼一教授が解く新しい腰痛の原因
矢吹省司教授が勧める腰痛の運動療法
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